はじめて珈琲を口にした味を覚えていますか?
初めての珈琲は高校に入学したての頃でした。私は、米子東高校合唱部に入部したのですが、あるとき、先輩の女子部員がキッサテンに連れて行かれまして、そこでコーヒーとやらをご馳走してくれました。
「砂糖とミルクを少し入れて、こうやって、解かして、少しずつ飲むのよ」
「・・・・・・・」
食中りのような煎じ薬のような味、これが大人の飲みものなのかと思いました。やがて珈琲の味になじみだしたのは、二十歳を過ぎてからでした。
アルバイトしながら音楽の勉強をされたそうですね。
高校卒業後、上京した私は、本格的に作曲の勉強をすることにしました。
幼い頃に両親を亡くした私は母方の親戚で育てられました。父の遺言では早稲田大学理工学部に行かせるようにとのことだったらしいのですが、私は勝手に東京芸大の作曲科に入ると言いだし、親戚中から勘当同然になり、自分でアルバイトをする羽目になりました。
できるだけ多くの音楽を聴く一方で、生活費も稼がなければなりませんでした。当時、名曲喫茶というものがあって、そこでアルバイトするのが手っ取り早かったのです。
店で珈琲の淹れ方を見よう見まねで覚えました。短期間でしたが、いっぱしのバーテン風になりました。
その頃、あるとき、さる国会議員の娘さんが東京の銀座で喫茶店を開くことになり、その店のチーフになりました。
店は一年余りで軌道に乗ったので、作曲の勉強もあるのでもうそろそろ辞めてもよいかと思い、オーナーに相談してみると、「店を休まないで試験を受けるならどうぞ」と、そのまま務めるはめになってしまいまして(笑)。
翌年、東京芸大音楽学部作曲科に入学できました。すると、入学お祝いに、四畳半のアパートにピアノが届きました。なんと店のオーナーからです。
なぜ音楽の道から珈琲へ?
入学してみると、芸大の作曲科とは、こんなにレベルが高いのかとカルチャーショックを受けたのですが、それでも昼間は大学でレッスンを受け、夕方からお店に出るという生活が数年間、続きました。
二年生になり、作曲の課題曲、木簡五重奏を書き終えた頃でした。とうとう身体を壊してしまいました。勉強が忙しくて、1日2、3時間ほどしか眠れないのです。とにかく眠る時間が欲しかったのですが、お店の方も責任者である以上、手が抜けません。
私は、しみじみと考えました。このままでは身体を壊して両方駄目になると。どちらを取るか、今、決心しなければならないと。
作曲家の卵から珈琲の専門家へ。
このままだと、近い将来、オーケストラ曲を各時間的な余裕も取れないだろう。足繁くコンサートに通う暇もない。音楽を正しく理解するには、もうこれで十分ではないか。本格的な和声法も対位法も、作曲法もそれなりに身に付けた。
日本最高の音楽芸術教育の場で諸々、勉強もできた事だし、音楽を生業としてではなく、教養として身に付けるだけでも幸せではないか・・・・。
珈琲を勉強し直して珈琲屋になろう。そう決意して、芸大の池内友次郎教授に相談すると、大変、叱られました(笑)。
「国家の税金で勉強していながら、いまさらなにごとか」
「・・・・・・・・・」
「辞めるならそれもよい。ただし、生涯でひとつ何か精神的な遺産を残しなさい」
半世紀が経った今、遺産は残されましたか?
教授が言う精神的な遺産になるのか分かりませんが、それが、「新しいドリップ珈琲・珈琲抽出の基礎と実習」です。
25年以上もの歳月を費やして書き上げたもので、私のもうひとつの交響曲です。
その後、どんな目標を立てましたか?
「30才までに自分の店を」持ちたいと考えました。
店を開くために、どんなことを心掛けたのですか?
いろいろな職種を見て歩きました。珈琲専門店の他、喫茶店、フルーツパーラー、カレー専門店、レストラン、スナック、うどん・そば店と。
食べ歩きや飲み歩きではなく、短期間でもその職種の舞台裏を経験したいと思い、実際に経験を積み重ねました。
異業種の店に携わりながら、珈琲というものを単独に考えるのではなく、すべての食文化の中でとらえるように心がけました。
本格的な懐石料理、中華料理、フランス料理、イタリア料理、ドイツ料理、沖縄の辻料理宮廷料理など、各国の伝統的な料理にもできるだけ多く触れました。
珈琲が、とりわけヨーロッパの食文化のなかでどんな位置にあるのかを考え続けましたし、今も考え続けております。
珈琲そのものについてはどんな学習を?
珈琲に関しては、残念ながら師たる方に巡り合えませんでしたので、ずっと独学でやってまいりました。
でも、このことは旧説にとらわれることなく、自分流に一から勉強するには良い事だったかもしれません。
どこそこの美味い珈琲ではなく、街場の不味い珈琲も多く飲んでみました。なぜ不味いのか、識別吟味することによってその原因が見えてきますから。
また、珈琲の本の類いに書いてあるやってはいけない事をあえてやってみました。自分の味覚で納得できるかによって、その本に書いてある説が机上の空論であるか、裏づけのある真実であるかどうか、よく納得できますから。
店はいつ開店できましたか?
昭和44年10月に開店しました。目標であった30歳になる3ヶ月前でした。
板橋の大山で、目の前が日大病院入口バス停前にありました。
4坪そこそこでフルフラットカウンター定員8名ほどの小さな珈琲屋を「Bourre(ブーレー)」と名づけました。キャッチフレーズは、「あなたのお口にあうコーヒーを」としました。
ブーレーとは古典組曲の一つで、大きな曲の間に使う小さな曲です。ちょっと息抜きの曲といった意味のフランス語です。
ブーレーには医学生が溜まり場だたっとか。
近くに日大の医学部や病院があったものですから、自然に。
開店当時、全国的にも学生運動が盛んな時期でした。ブーレーが開店して2日後でした。日大医学部でも学生ストライキが勃発し、以後2年間授業ボイコットがつづきました。
一般学生は登校もしないので経営的に苦しい時期もあったのですが、闘争委員会のメンバーが多く来店してくれましておおいに助かりました。
何でも教授会ではラジカルな学生がたむろしているとして店はブラックリストに挙げられたりしたらしいです。これに反発して、闘争委員会では「ブーレーを守る会」なるものが結成されました(笑)。
2年ほど過ぎると、だいぶ学内も落ち着きだし、授業は再開されました。
すると、ブーレーにも、先生や医局員の先生方から、看護婦さんや医学部の学生さんなどが多く来店し、大変賑わいました。事ある毎にパーティやコンサートを開きました。
あなたにとって珈琲とは?
今から460年前、トルコのイスタンブールに「珈琲の家」(カーヴェハーネ・Kahvehane)が誕生しました。世界初の居酒屋風カフェです。
それから20数年後、イスラム社会では、「認識の学校」とまで認められた珈琲店が現れます。そこには、宗教界や政府の要人、学者や詩人から多くの市民たちが分け隔てなく出入りしたそうです。
以来、「理路整然と会話を発展させるためには、珈琲でなければならない」と言われています。
このことは、今日においても言えることです。
あなたにとって珈琲の店とは、何ですか?
小さな珈琲専門店ほど客との距離が近づきます。つまり、オーナーの生きざまがすべてにおいて現れます。
客との会話は、へつらうことなく、尊大に構えるでもなく、ごく自然に、本音で為さねばならないと思います。
自分がいかに多くの事を正しく理解し、身に付けているか、それは会話の一言にも、二言にも、滲み出るものです。
もちろん珈琲そのものはオリジナリティーのある第一級の味でなければなりませんが、それは珈琲専門店の中のごく一部分でしかないのです。それらを含めた全体の雰囲気が商品なのです。
珈琲をドリップするということは、己れの人生をもドリップすることですから。
職業はと聞かれたら何と答えていらっしゃるのですか?
「珈琲豆屋」があるように、そのアンカーとしての「珈琲液体屋」です。
竹田徹 たけだとおる
1939年 福岡県生まれ
1963年 東京芸術大学音楽学部作曲科入学
1965年 同校依願退学
1968年 珈琲専門店開業(東京都板橋)
1995年 月刊誌「喫茶&スナック」(旭屋出版)に「竹田徹の新説・美味しいコーヒーの科学」連載始める(14ヶ月)。
1996年 上尾市原市に「布ドリップ専門・竹田珈琲」を開店。
1997年 「ショッパー」(東京新聞社)のコラム「一筆献上」に「忘れられない珈琲」を連載(1年間)、同年、珈琲専門家養成教室を主宰。
1999年 一般向けの楽しい珈琲教室主宰。
2001年 「竹田珈琲」閉店、以降、珈琲教室に本格的に取り組む。
現在、竹田珈琲教室主宰
NHKカルチャーセンター珈琲講座講師
読売日本テレビ文化センター珈琲講座講師
その他カルチャーセンター珈琲講座講師
開店予定者・自主サークル珈琲講座講師